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熱田神宮 舞楽神事

2011年、4月29日の真清田神社に引き続いて、5月1日、熱田神宮で催された舞楽神事を見に行った。

 

あいにくの雨で、舞楽神事は屋外の舞台ではなく、屋内の舞台を我々は屋外のテントの中から観賞することになった。

 

開演は10:30で、私は9:20ごろ神社に到着して、ちょっと早すぎたか、と思ったが、テントの中の席の1列目と2列目はすでに埋まってしまっていて、私は、来賓席の後ろの最前列の隅に座り、始まったら外の一番前に行こうと思ったが、次から次と人がきて、思っていたところに陣取ることができなかった。

 

ただ、午前中の来賓はは3人だけで舞台がよく見えたのでラッキーであった。

 

昼食休憩は、境内の「宮きしめん」ですませて、午後はテント横の最前部に人がいなかったので、そこに傘をさして陣取った。

 

演目は9曲で、舞台を祓う「振鉾」からはじまり、最後は、「落蹲」「長慶子」で終わり、中の5曲は真清田神社とは違ったものだった。

 

ここでも演目の目録がいただけて、熱田神宮の舞楽神事についての解説は下記になる。

 

「熱田神宮の舞楽神事の起源については詳らかではありませんが、すでに平安時代の初期には行われていたと伝えられています。承和十二年(845)の正月、百十三歳の高齢でありながら「和風長寿楽」を見事に舞って、仁明天皇の天覧に浴した尾張浜主や、「赤白桃李花(せきびゃくとうりか)」「青白蓮華楽(せいびゃくれんげらく)」を作舞したことで知られる尾張秋吉等はともに当神宮の社家であり、また当神宮が所蔵する舞楽面の中には平安・鎌倉期の治承・弘安の頃に修復したことを裏書きしたものがあり、これらのことからも、その歴史の古さをうかがい知ることが出来ます。爾来、時代とともに多少の移り変わりはあったものの、今日なお当神宮の雅楽奉仕団体である熱田神宮桐竹会の協力によって、立派に保存・継承されています。」

 

6曲目の「迦陵頻(かりょうびん)」が華やかで、とりあえずYouTubeにアップしたが、真清田神社で見た、「胡蝶」に似ている。

 

「平安時代の初期に曲・舞とも我が国で作られたものと伝えられていますが、曲が林邑楽(りんゆうがく)に位置していることから、一説には仏哲阿難が印度より唐に伝え、その後、我が国に渡ってきたともいわれています。舞人は額に紅白梅の挿頭花をさした天冠を当て、鮮やかな朱赤の袍を著け、背には極彩色を施した羽根を負い、手には銅拍子を持ち舞台に昇ります。舞は唐楽の壱越調で、まず林邑乱声で出手を、迦陵頻音取につづいて当曲「急」を舞い、順次舞台を降ります。舞振りは銅拍子を打鳴らし軽快に舞台を跳廻り、その姿はあたかも極楽鳥がさえずりながら羽ばたいているような優雅で可憐な童舞(わらべまい)です。」

迦陵頻の次に、この日のメインの演目と思われる「蘭陵王(らんりょうおう)」が演じられた。

 

30分以上にもおよぶ舞で、YouTubeの1ファイル15分以内の規定に入りきらないので、前半、中間に楽奏なしで舞われる部分があり、後半へと続くので、その3部構成に分割してアップした。

 

この舞は、極めてカッコイイ。

 

尾張、熱田神宮ゆかりの織田信長の姿を思い浮かべた。

 

目録の解説は、下記の通り。

 

「中国六朝時代の北斉の国王蘭陵王長恭が、美貌を獰猛な仮面に隠して周の敵軍を金傭城下で破り、その名を天下に轟かせました。その戦いの勇壮なさまを模してこの舞を作ったと伝えられています。またの名を「陵王」とも称します。舞人は竜頭を頂いた恐ろしい面を被り、裲襠(りょうとう)装束を著け、緋房のついた金色の桴(ばち)を持ち舞台に昇ります。舞は唐楽の壱越調で、太鼓・壱鼓の拍子にあわせ陵王乱序を奏でる中、まず出手、次いで沙陀調音取、次に当曲、終わって安摩乱声で入手を舞います。舞振りは勇壮活発で、リズム感にあふれ、しかも荘重さを失わず、特に曲の後半には太鼓の拍子も活気のある打ち方となり、益々巧妙となります。」

 
 
 

この日は、下記の9演目が奏された。

 

振鉾(えんぶ)、賀殿(かてん)、地久(ちきゅう)、春庭花(しゅんでいか)、白浜(ほうひん)、迦陵頻(かりょうびん)、蘭陵王(らんりょうおう)、落蹲(らくそん)、長慶子(ちょうげいし)

 

うち、振鉾、落蹲、長慶子は、真清田神社の舞楽神事のときのものをアップしたので、残りの4曲をアップした。

解説は、配布された「目録」による。

 

● 賀殿

 

「仁明天皇の嘉祥年間に勅命により作られたこの曲は、承和年間に遣唐使の藤原貞敏が伝えた琵琶の譜に基づいて、楽師和邇部太田麿が笛の譜を作り、林真倉が舞を振付けたと伝えられ、古来おめでたい時によく舞われました。舞人は鳥甲を被り、襲装束を著け、袍の右肩を袒ぎ、順次舞台に昇ります。舞は唐楽の壱越調で、まず出手を「迦陵頻の急」に合わせて舞い、次いで当曲「破」「急」、終わって「急」の重吹に合わせて入手を舞います。舞振りは「破」はゆるやかに、「急」は変化に富み、荘重と典雅を極めていますが、本年は「破」のみを舞います。なお、左方の舞は一般的に笙・篳篥・龍笛・打物(鞨鼓または壱鼓・太鼓・鉦鼓)で奏します。」

地久

 

「この曲の由来は詳らかではありませんが、藤原公任が紫の桜が花盛りなのを見て、柱で拍子を打ちながら口ずさんだ催馬楽の「桜人」に合わせ、近衛の陣にいた楽人多政資が「地久の破」を舞ったと伝えられています。舞人は鳥甲を被り、襲装束を著け、袍の右肩を袒ぎ、順次舞台に昇ります。舞は高麗楽の双調で、まず出手、次いで「破」を舞い、終わって一旦楽を止め、舞人が三歩退き、再び「急」を舞いますが、本年は「破」のみを舞います。舞振りはいろいろな手振りが総合されている点に特色があり、静かで誠に優雅です。なお、右方の舞は一般的に篳篥・高麗笛・打物(三鼓・太鼓・鉦鼓)で奏します。」

● 春庭花

 

「唐の玄宗皇帝が春寒く花の咲くのが遅いことを憂い、この曲を奏でたところ、たちまちに咲き誇ったとの故事にならって、春の庭に喜気として遊ぶ姿を舞にしたといわれ、桓武天皇の延暦年間に久礼真蔵によって伝えられたといわれています。舞人は桜の挿頭花をつけた巻櫻の冠を被り、蛮絵装束を著け、太刀を佩き、袍の右肩を袒ぎ、順次舞台に昇ります。舞は唐楽の双調で、まず調子・品玄で出手を、次に当曲を舞い、終わって重吹で入手を舞います。舞振りは優雅で、春の庭に遊ぶさまや、花々が開き、すぼむさまを表現しており、誠に華麗です。」

● 白浜

 

「この曲の由来は詳らかではありませんが、韓国の地名から「白浜」の名が伝わったといわれています。別名を「栄円楽」ともいいます。舞人は山吹の挿頭花をつけた巻Aの冠を被り、蛮絵装束を著け、順次舞台に昇ります。舞は高麗楽の双調で、無拍子の序吹きに始まり、まず出手を、次に当曲を舞いますが、曲中に向かい合わせに跪いて、袍の右肩を袒ぎます。舞振りは入違い、大輪、或いは背中合わせ、十文字になったりと、すこぶる変化に富んで大変優雅です。」